Diary of a Madman

癲狂院に置かれた或る一冊のノートブック
狂気の記憶が焼き付いた、深淵なる倒錯の記録の数々。
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ずっと忘れない......

 実は...、高校に入ってすぐ、クラシックギターを1年程習っていました。とにかく高校に入学したらギターをやろうと意気込んでいたのですが、まだギターの知識も全くなく、当然ギターも持っていませんでした。
 入学した高校には、軽音楽部とギター部がありました。「...軽音楽部があるのに、ギター部なんてあるんだ? ....ひょっとしてヴァイやインギー、ヴァンヘイレンとか特に洋楽志向のエレクトリックギターだけ弾く部なのかな....?」何も知らなかった自分にはなぜかギター部がそういう風に思えてしまったのです。もちろんもしかしたらクラシックギターなのかもしれない、とも思ったりもしたのですが。(←普通に考えてみたらクラシックギターに決まってるのですが当時の自分にはそう考えられなかったのでした。w)
 素直に軽音楽部に入ろうとしなかったのが、さすが天性のあまのじゃく。w 「洋楽志向なのがやりたいし、ちゃらい軽音楽部なんて、い や だ。」(さすがDQN工房。我ながらイタ過ぎww)....って感じだったから.....。w まあ、確かに当時は学校が男女共学になって学校が新しくなったばかりだし、まして軽音楽部なんてのは、熱心に活動する様な部ではありませんし、実際演奏していたのは国内のバンドの曲だったらしいし....当時の(イタ過ぎる)自分には向いていなかったでしょうね。

 そんなわけで、いざギター部の活動している教室へ向かい入部しようと扉を開いた瞬間.....しまったと.....気付いたのです。

「う゛、クラシックギターだ」

 .....しかし時既に遅し。成り行きで....その日からクラシックギターを弾くことになってしまいました。もちろん弾きたかったのはクラシックギターではなくエレクトリックギターでしたが、うちの親はクラシック狂だしロックなんかは嫌悪する程でしたので、たぶん無理かな...と思っていましたから、まあ、それでもよかったのかもしれません。「どのみち同じギターだし、いずれエレクトリック弾くときに役に立つだろう」と思い改めました。
 ちなみにそのギター部、部員が5人くらいしかいなかったんです。ちなみに全員女子で3年生。(それまでは女子校でした。)ですからこのまま1年生が入部してこなければ廃部になってしまうのですね。前はけっこうな人数だったらしいのですが、やはりクラシックは敬遠されがちなのでしょうか。......というか「あの」学校にクラシック好きはあんまりいなそう。w (いや、でも、芸術学科があったからそんなこともないはずなのだけど.......。) 一人男というのは肩身が狭かったです。おまけにギター初心者だったし。

 顧問の先生はギターは弾かなくて、ギター教室で教えている人が学校まで来て下さって教えているというのです。ちょうどその時は来ない日でいなかったのですが、先輩から次のことを聞かされて驚きました。
「ギターを教えてくれる先生はね、おばあさんなんだよっ」
「しかも有名な人らしいよ」「ちょっと性格悪いよね」(←もっともこれは冗談ぽかったのですが知らない自分は真に受けました。)
((((゚д゚)))))
......おばあさんが? 教えるの?? ......教えられるのか???
有名? 自称なんじゃないの? 
性格悪い? うそ〜???
((;・д・))ガクブル


........そしてその日はやってきました。

 教室へ入って来た方は本当におばあさまでした。眼鏡を掛けた小柄なおばあさまでした。人柄も良く、性格が悪い、なんてことは全くありませんでした。ただ....敢えていうなら、指導が厳しかったのかも知れません。「違う!ここはこう!(びしっ)」「前に教えたでしょ、何、もう忘れちゃったの?」......けっこう何でもおっしゃる方でした。.....それでも優しかったと思います。

 初めて先生がギターを弾くところをその日拝見したのですが、................凄い。凄すぎる。........とにかく上手いのです。先生なのだから上手いのは当たり前といえばそうなのでしょうが、失礼ですが窺う外見と演奏がまるで別物のように感じられました。正確なフレットワークにピッキング、速いパッセージもバッキングも織りまぜつつさらりと弾きこなしてしまうのです。.....想像してみて下さい.....70歳も過ぎたようなおばあさまが蜘蛛が這うような素早さでフィンガリングしていくのですから!弾かれるトーンも素晴らしい。音が詰まる事も無く艶があり本当にきちんと1音1音弾き切れていることは、すぐに分かりました。しばらく弾いた後レッスンが始まり、早速自分にもギターが手渡されました。ところが左利きですので、通常のギターは無理なのでは無いかと申したところ、あっさりと「利き手は関係ないから。はいこれ」と有無を言わさず、そのまま通常のギターを手渡されました。それまでエアギター(ギターを弾くマネ)では自然と左で構えていたので、不安だったのですが、なぜかすぐに違和感がなくなっていきました。

 レッスンは、一人初心者の自分だけほとんどつきっきりの状態で教わっていました。子供用の教本を渡され(徐々に小さく増えていきましたが、大きな五線譜が各ページに2段位しか書かれていないもので、クマさんのイラストとか載ってるのw)、「これが1から7まであるけど、長々とやっていられないのでさっさと終わらすから。」と言われてしまいました。内心えぇ〜、なんだか教わる自分より教える先生の方が気合い入ってるよ〜って感じで初日から圧倒されっぱなしでした。......ただ救いだったのは、小学生の頃、エレクトーンを習っていたおかげで読譜はある程度できたので、いちいち音符1こずつ「ド....レ.....ミ.....」と読んでいく必要はありませんでしたので、とにかく指板のポジションを把握して譜面通りに弾く事が課題でした。 アコースティックやエレクトリックギターだと、ギターを手にして初めに弾くのは、どちらかというとコードを弾く場合が多いように思いますが、レッスンはいきなりリードメロディを弾いていく事でした。ローポジションのCメジャースケールをとりあえず覚えたら、とにかくメロディを弾きまくるのです。指が小さく手も小さい自分には幅の広いクラシックの指板はなかなかきついものでした。その後、さっさとハンマリング、プリング、スライド、ハーモニクスと技法を習っていきました。

 弾く曲はもちろんクラシックでした。バッハやショパンなどの有名曲の簡単に弾けるメロディの一部分や、グリーンスリーヴスなどの民謡なども弾いていました。クラシックは嫌いではなかったので、弾く気が失せる、なんてことはありませんでした。練習はほぼ1日置きだったような気がします。実はその先生は自宅でギター教室を開いていてなおかつ出張によるレッスンもしていたのです。60歳をを過ぎて運転免許を取ったそうで、かなり遠くの方まで出張していたようです。.........知れば知る程、この人は凄い、ふつーのおばあさまじゃない....と思い知らされるのでした。


 冬に、ある大学......名前を出しても差し支えないと思いますが、高崎経済大学との合同コンサートがあるので、そこで演奏する事になったバッハの「小フーガ」を夏辺りから徐々に取りかかるようになりました。暑い夏の日でも教室で弾いていました。3年の先輩は学校でのレッスンが終わったら帰る事が出来たのですが、自分だけなぜか先生の御自宅まで連行されw、さらにレッスンを受けるハメに。部活動のない日でも自分だけ先生の教室へ通って練習していました。 いやあ.....車で送り迎えしてくれるのは良かったのですが.......何度か交差点で危ない目に。w 先輩に「明日会えるか心配だ」なんて言われました。ww それでもよく60を過ぎて運転する気になったものだと感心しましたけれど。車内で変わったクラシックの曲を掛けてくれたりして、その豊富なキャパシティにも驚かされました。.......口笛によるオーケストラとか、変わったのがありました。(きちんとヴィブラートも掛けてあったり、トーンも、本当に音楽的........あれには驚きました。)
 ちなみにパートはバス。クラシックギターには、プライム、アルト、バスなど他にも種類があり、プライムというのが、いわゆる普通のサイズで、レギュラーチューニングEADGBEです。バスは.....よく覚えていないのですが、おそらく普通に言われるバリトンだったかと思います。全弦を完全5度下辺りまでドロップしたチューニングだったと思います。そこで参ったのがいわゆる移調楽器として扱われていた事です。小さい頃にエレクトーンを習っていたせいか、中途半端に絶対音感が身に付いてしまっていて、単音や幹音(自然音/ピアノの白鍵部分)だけは音を聞いただけで何の音か分かってしまうんです.....。(そのくせ耳コピが苦手っていうのはどういうことだ....。耳が腐っているな。w)「固定ド」(Cメジャー以外のキー、例えばDメジャーでもEメジャーでもドレミ...で表す)で説明されると、実音とは違う音名なので....慣れるまで大変でした。

 高経大との合同コンサートは.....あんまり記憶にないのですが、そつなく演奏できたのではないかと思います。もっともバスなのでそんなに複雑なメロディがあるわけでもないので、きちんと譜面を追っていければ大丈夫なレベルだったのでしょうけれど。


 でも........その後、部を辞めてしまいました。当然、3年生が卒業し自分も辞めてしまえば廃部になることはわかっていましたが。もちろんギター部が嫌だった訳ではありません。先生が嫌いだったわけでもないです。........理由は.....秘密にさせていただきます。1つ言える事は、通っていた学校が自分には合っていなかったと言う事....。 それから歳月は過ぎた今でもそれだけは後悔しています。廃部させてしまった張本人ですから。いつか後輩が入部してきたかもしれませんし。........あの時もしも自分がランディ・ローズを知って傾倒していたなら狂うようにクラシックギターを弾いていたと....思います。ランディはオジーの下でメタルをやりながらも、クラシックギターを習っていましたし、生前、UCLAへ入学しクラシックの学位を取りたいと言っていたし、もしあのまま生きていたならば、クラシックの道へ進んでいただろうと、多くの人がそう言っています。.......知るのが遅過ぎました。自分で言うのも恐縮ですが、先生もなんとなく特別扱いして下さっていたように思えます。もしかしたらクラシックのギタープレイヤーにさせたかったのかもしれません。実際、先生の下で教わりクラシックのギタープレイヤーになっている人はたくさんいらっしゃるようですから。

 あれから、時々、先生はお元気かな、と思う事がありました。ふと電話帳を見たりすると相変わらずギター教室を開いている様でしたので、おそらく元気でいらっしゃるのだと思い安心していました。


 少し前に、久しぶりにそんなことを思い出していました。当時70歳位でしたから今なら80歳近く.......お元気であれば良い....と思いながら、初めてネットで検索してみました。有名な方だと聞いていたので必ず何か情報があるはずだと。でも.......見つけた記事は悲しいものでした。今年の2月に亡くなられていたのでした。亡くなる直前までいつものように何時間もギターを練習していたのだそうです。......また罪が1つ増えてしまいました。お葬式に出られなかったのは悔まれます。そんな中、9月はじめに、ある1本の電話がかかってきました。家族が出たのですが、相手の方はなんと先生の娘さんだったのでした。追悼コンサートを開くのだそうで、生前、先生がよく自分の事を話していたので、連絡した、とのことでした。............実際どんなことを話していたのか分かりませんが、1年も教わっておらず、逃げ出すように辞めてしまった者のことを憶えていてくれた事は.....とても嬉しい事でした。コンサートの日時は、そう、今日9/18でした。

 もちろん見に行きました。そこに先生はいないですが行かないわけにはいきません。あの世でこれ以上説教されるわけにはいきませんから。w 会場は高崎の市民文化会館だったのですが、そんなにお客が入るのだろうか、と疑問に思っていましたが、.....最後まで先生の凄さを知らなかった様です。開場前から行列が出来ていて、席は即満席の状態。しかも年齢層は幅広く、中高生辺りから年輩の方まで........全く驚かされました。会場の司会の方もおっしゃっていましたが、皆口を揃えて言うのは、演奏の腕前だけではなく、その人柄に惹かれていた、ということです。これには間違いなく同感です。時には厳しかったですが、面倒見の良い優しい先生でした。押し寄せた人達の数が何よりの証拠です。ちなみに.....先生は、ギターの合奏団も創設されていてコンクールで連覇する程レベルは高かった様です。これは案内状を見て知ったのですが、現在は先生の娘さんが教室も、合奏団も受け継いでいる様です。コンサートでも演奏を披露していましたが.......先生同様に激ウマでした。姿もそっくりでした......。

 ネット知ったのですが、先生は、日本ギター合奏連盟の副理事長を務めていたそうですから、とんでもない人からギターを教わっていたのでした。しかもギターを初めて手にし手ほどきを受けたのが、あの先生だったのですから、幸運なことです。

........先生のことや教わった事は、ずっと忘れません。どうもありがとうございました。

簡単に先生のプロフィールがあります。
http://www.guitarists.or.jp/seikain09.html

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